音楽ビヤプラザライオンの店内
こんにちは。
本日の座間地方は晴れ・・朝のうちはストーブを焚きましたが、日中は陽の光がサンサンと入り暖房なしでも暖かく過ごすことができます。
さて、銀座の音楽ビヤプラザで歌っている歌手から、ビヤプラザが30周年を迎えるにあたって作成する記念誌への寄稿を依頼されました。
音楽ビアプラザはクラシックの音楽家の演奏を聴きながらビールや料理が楽しめる、当時としては画期的なお店でした。
私はその創立メンバーの一人でした。
1988年の話しです。
1986年に藤原歌劇団本公演「カヴァレリア・ルスティカーナ」のローラ役でデビューを果たし次々に公演の依頼が入り傍目には順風満帆だったにも関わらず、若くて歌いたい盛りの私は「もっと歌う場が欲しい」と思っていました。
そんなおり、たまたま歌手の公募を「音楽の友」という雑誌で知り、オーディションを受け歌うことになりました。
一ヶ月ほど稽古期間がありいよいよ開店・・
開店時期は忘れてしまいましたが、それから多分10ヶ月に満たないほどの期間、1989年2月まで歌っていました。
音楽ビアプラザで歌い始めてまもなく、藤原歌劇団で「椿姫」のオーディションがあり、メゾソプラノの私はフローラ役で受けました。
オーディションに合格し、おまけに海外研修の奨学金まで出してもらえることになりました。ただし奨学金は研修に行く際に支給され、また1年以内に渡航することという条件つきでした。
私は歌う場は欲しかったけれど酒場で歌うというのは性に合わなかったので、あっさり音楽ビアプラザを辞めイタリアに旅立ちました。
奨学金は1年間イタリアで暮らすには不足する額でしたので、その時は半年で帰国しました。
(この後、1994年に文化庁派遣芸術家在外研修員として1年間正式にイタリア留学をしました。)
帰国してみると直ぐには仕事がなく、音楽ビアプラザから戻っておいでと声が掛かったこともあり、再び歌うことにしました。1989年8月頃の話しだと思います。
こんな私であるのに、何故か人気があり、ビアプラザで歌っている短い間に二回も私を主役に「カルメン」を上演し、立ち見が出るほどのお客さんがいらっしゃいました。
また新潟や函館など地方のサッポロライオンのお店のイベントに招かれ、楽しい思いを沢山させてもらいました。
しかし1990年の2月に完全に辞めてしまうことになります。
1991年にNHKモーツァルトイヤーの「魔笛」のダーメⅢに、当時のN響指揮者のサバーリッシュ氏自身によるオーディションで出演することになり、その流れでNHKニューイヤーオペラコンサートで歌うことになったりと、本格的にオペラ歌手として活躍が始まったのと、母から「自分の大切な歌を安く売ってはいけない」というような意味のことを言われ、自分なりに納得したからでした。
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話しは音楽ビヤプラザに戻りますが、クラシックの歌手の活躍の場としては良いのではないかと思います。
ただし私は声の無駄遣いへの危機感と、酔客に声をかけられることへの嫌悪感が強すぎてダメでした。
にもかかわらず・・自分で言うのもなんですが、人気ナンバーワンだったんですよね・・花形歌手だったみたいです。語りぐさになっているそうです(笑)
ファンのグループが幾つかあって、美味しいお食事をたくさんご馳走になりました。
自分の意識と世間の認識ってずれてるんですね。。
30年の間には色んな歌手がステージに立ったと思いますが、ごく初期にわずかな期間しか歌わなかった私に原稿の依頼が来るのも不思議です。。
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原稿どうしようかな・・自分の心はいつも違う所にいたから、あまり戻りたくない記憶だしね。。本当のことも書けないし・・正直な私は困っています・・。
それでは皆さん、今日はこの辺で。