NAOMI〜エメラルドグリーンのクレフ2

半農半Xを目指して。過去ログ2006~2013:http://blog.goo.ne.jp/n_aomi1214

3.11・・私の記憶

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おはようございます。

本日は3月11日・・東日本大震災福島原発事故から7年の月日が経ちました。

新聞では、今も7万3千人の方々が非難生活を余儀なくされているという報道がありました。

犠牲になられた皆様に、あらためて追悼の意を表したいと思います。

 

私は直接の被災者ではありませんが(放射能汚染という意味では被災者といえる)、その日のことは一生記憶から遠ざかることはないでしょう。

その日は勤務していた音楽大学の追加入試の日でした。

さすがに受験者が少なくて、お昼には帰宅していました。

私は、2011年に入ってから胸騒ぎや内臓がよじれるような感覚を頻繁に感じるようになっていました。

3月9日に東北地方沿岸でマグネチュード7を超える大地震があり、それを感知していたのかと思っていましたが、その地震のあとになっても身体の感覚異変は相変わらずでした。

そして震災当日・・自宅に戻り昼食の準備をしていると、突然激しい胸騒ぎに襲われました。

「どこかで何かがあったのでは?」と急いでパソコンで情報を探しました。

9日の余震と思われる地震の情報はあったと思いますが、それ以外これといったニュースはありませんでした。

ところが胸騒ぎは収まらず、息が出来ないほどの体感になり、ちょうど休暇で一緒に食事をしていた夫に「すごく嫌な感じがする!」と漏らしていたところでした。

そして2時46分・・遅い昼食を終えたころ、激しい揺れがやってきたのでした。

 

テレビでは被災地の惨状を刻一刻と伝えていました。

津波に押し流される家々、炎に包まれる気仙沼・・

これが現実に起きていることなのだろうか・・想像を絶する光景に、バーチャルの映像を見せられているようで感覚がどんどんマヒしていくのが分かりました。

被災者の方々の避難所での様子が伝えられてきました。

ボランティアで働く方々の様子も・・

私も自分にできるボランティアはないかと、街をさまよいました。

 

原発は?原発は大丈夫なの?」

原発メルトダウンし、大量の放射能が関東一円にも降り注ぎました。

そして計画停電・・首都圏のベッドタウンである我が地域は計画停電のため、真っ暗な夜を過ごすことになりました。

信号が消え、街頭も消えた真っ暗な夜道を帰宅した夫が、

「こんなことになっちゃうなんて!!」と涙を浮かべて言った言葉を忘れる事が出来ません。

 

そのころ自宅からすぐの所に畑を借りていました。

大根とブロッコリーが収穫期を迎えていました。

放射能ブルームが来る前に収穫してしまおう!」

そして、その畑をやめました。

 

原発事故後ガイガーカウンターを購入し(3台も!)、家の中外・公園・道路脇など、あちこちを測定しました。

ただ怖がりたくないので、実際に線量を測ろうと考えたのです。

線量計の値には放射能汚染がしっかり表れていました。

野菜はすべて西日本のものにしました。

水はペットボトル、米は事故前に収穫したものを買いだめました。

洗濯物は室内干し、窓は開けない、外食しない、・・など、夫には「放射”脳”」扱いされながら、自分たちの”命”を守るために必死でした。

そして、思考にバイアスをかけ安全対策をしない人達たちに、現実の深刻さを知ってもらいたいと、祈るような気持ちでした。

 

原発から270キロ離れた私でさえ、こうなのです。

被害に遭った皆様を思うと胸が痛みます。

 

原発事故から二年後、福島に住む夫の姉が進行性の癌で他界しました。

その葬儀に向かう途中のサービスエリアでは、ガイガーカウンターの警報音が鳴りっぱなしでした。

 

それ以来、毎日の空間線量を調べたり、原発関係のニュースにアクセスしたり、食品の安全性を調べるのが習慣になりました。

 

調べれば調べるほど原発は恐ろしいものです。いいことは一つもない!

経済第一主義で、恐ろしい原発をさらに推進しようとしている安倍政権は、もっと恐ろしいです。

 

私たちは「もっともっと」を止め、自然と共存する生き方にシフトできないでしょうか?

3.11の出来事は、私にとって人生最大の意識革命の引き金になりました。

3.11を忘れて、前のような在り方を進めてはいけないのだと思います。

そうじゃないと、あれほどの犠牲の意味がなくなります。

 

少なくとも私は、自然と共生し、循環させる(ゴミを出さない)生活を実現していきたいと、思いを新たにしています。

 

それでは皆さん、今日はこの辺で。