裏庭の片隅に咲いた福寿草
こんばんは!
今日は風が強い一日でした。
今日は私の声楽の師匠について書きたいと思います。
私が終の住処として移住したこの土地は、偶然にも人生最大の恩師である最初の声楽の師匠、古屋先生の故郷です。
先生が甲府一高の出身と言うことは知っていましたが、まさか北杜市白州町の人とは知りませんでした。
・・
私は故郷浜松で12才の夏から声楽のレッスンを始めました。
オペラ歌手になりたいという夢から始めたのではなく、宝塚に入りたいという希望の代償に母が許してくれたので声楽を始めました。
母は田舎者だったので、宝塚の「た」の字も知らない人でした。
もちろん私も田舎者ですから見たこともない宝塚の世界に勝手な幻想をいだき、小学校を卒業したら宝塚音楽学校に入りたいと母に懇願していました。
ところが・・
「踊り子風情は絶対にダメ!、食べていける道を選びなさい!」
「クラシック音楽なら食べていける!」
という根拠のない母の意向で、声楽のレッスンを許されたのでした。
母が許してくれるのなら・・ということで、
そのころ師事していたピアノの先生に自ら、
「どなたか声楽の先生を紹介してください。」
とお願いしました。
そこで紹介されたのが古屋先生でした。
エエ格好しいで洒落者の先生でしたが、おおらかで面倒見が良く褒めて伸ばすタイプの先生で、私は大好きでした。
先生のおかげで声楽の世界にのめり込み、練習熱心な生徒になりました。
その頃先生は浜松初の音楽高校で教えていて、私は迷うことなくその高校に進学し、中学から高校卒業までの6年間先生の元で研鑽を積みました。
東京芸大進学も古屋先生の薦めでした。
声楽が好きで好きで、三度のご飯よりも(というのは大げさですが)大切、練習出来なくなるから、どこかに遊びに行くなんてとんでもない(これ本当!)というくらいののめり込みようでした。
練習さえしていればハッピーな毎日なので、どこの大学に行くとか考えたことはありませんでした。
つまり進学や進路のために学んでたのではないんですね。
そんなノー天気な私でしたから、先生が薦める大学にいくのは自然な成り行きでした。
現実的にはそれなりに難関校でしたので、勉強しましたけどね・・。
先生は、大学に進学してからも折にふれ浜松でのコンサートに呼んでくれました。
そしてオペラ歌手として活躍するようになってからは、舞台の度に東京まで足を運んで下さいました。
浜松でのコンサートの後は決まって先生と飲みに行きました。
先生は「教えを垂れる」と言うことは全くありませんでした。
そんな先生が繰り返しおしゃていたのは、
「直美君、歌はハートで歌うものだよ!」
私が更年期で全く声が出なくなったとき、酷く落ち込んでいたら、
「ようやくハートで歌えるようになったね!」
と、さりげなく慰めて下さいました。
何かあると直ぐに先生の声が聞きたくなる私は、「先生っ子」です。
・・
その大切な先生から一通のメールが来ました。
「暖かくなったらそちらに行くから、君のところにも行くかもしれないよ!」
「年明けに抗癌剤と放射線治療をしてね、懐かしい人に会っておきたいんだ。終活だと思ってね。長坂のあたりはよく歩いて知ってるんだ・・愚痴っぽいことを言ってすまないね。」
先生は長坂駅から甲府に通っていらしたんだろうか?
先生が本当にこちらに来て下さったら、先生の足になって先生の懐かしい人や場所にお連れしたい・・
先生との51年間をふり返ると胸がいっぱいになります。
この土地で生まれ育った先生が浜松に住み、浜松で育った私が先生の故郷に住んでいる・・
こんなことってあるんだろうか・・
それでは今日はこの辺で!