夜、私が声や歌というもの研究をし続けることによって開発された能力について、夫に話した。
私は声を聴いただけで、その発声者が使っている肉体的なメカニズムが分かる。
それが他人の声であっても、自分の発声器官や声に関わる部位が同期するのだ。
同時にその人の精神の在り方まで伝わってくる。
ここがこうだからこういう声になる・・とか、歌う時には心身が「静謐」でなければならないとか・・
歌が好きで夢中で歌うのもいいのかもしれないが、そこにアートはない。
歌は心を込めるものではない。絶対に感情的になってはいけない。
表現は、その曲と地道に付き合えば、上から勝手に降りてくる。
歌に対して自我があるうちは、何も降りてこない。
歌は歌い上げるもの。
音楽は音で空間を構築すること。
声は、心身を、すべての細胞を、合理的に制御することによってのみ出来る、ひとつの絶対的なバランスの中で出すものだ。
歌はそのラインとダイナミズムを自分から離し、それとともにいながら、同時に俯瞰するように、メロディーとリズムを奏でる。
・・・
私は、まだ自分は時々は歌った方が良い、と思う。
歌いたいから・・というより、私が到達した(というより気づいた)ことを伝えるのに、自分の声と身体を道具として使いたいからだ。
道具は使わないと使えなくなる。
・・オペラの舞台に人生の全てを捧げていた時代はもう終わった。
その頃の私は無我夢中で、何も分かってはいなかった。
私は「分かる」ために歌の道を歩いたんだと思う。
だから本当は、もう歌わなくても十分なのだ。