川越〜小江戸の町並み
時の鐘 ・・耐震化工事中・・
こんにちは!
本日の座間地方・・朝のうちは陽が差していましたが、午後になって雲が多くなってきました。☁☁☁ ときおり強風が吹いています。
昨日マルセル君の両親のお墓参りで大宮に行った帰りに、川越まで足を伸ばし小江戸の町並みを散策してきました。
20年ほど前に訪れて以来ですが、ここも所々に空き家が目立ち、町をあげての景観保全に陰りを感じました。空き家は移りゆく世の現れなんですね。
話しは変わりますが、皆さん「ノン・デュアリティ」って聞いたことありますか?
説明できることではないので、ご参考までにページを貼っておきます。
『大和田菜穂のリトリート』 | End of Seeking 《探求の終わり》
「私はない」・・「○○はない」・・「何もない」
「すべてあること」
「全てあることの表現」
「ただ起きている」
「起きていることに意味はない」
「怒りはストーリー」
「悲しみはストーリー」
「喜びはストーリー」・・「○○はストーリー」
「何もない」
「教えに近づこうとするは分離」
「探求は分離」
「すべてはエネルギーの表現・・」
言葉にしてしまえばこんな感じです。
が、何かを言葉に置き換えるということが「分離」ですので、「ノン・デュアリティ」ではなくなるということなんですね。
「ノン・デュアリティ」は練習や修行で到達するのではなく、今そのままですでにそうだということです。
そうなろうとすることは分離で、「理解する」「理解しようとする」ことも分離です。
確かに・・
「私はない」・・「山はない」「町はない」・・と言ってみると・・全てがエネルギーの粒に観えます。
エネルギーはもともとあり(宇宙はエネルギーそのもの)、凝集したり拡散したりすることで、見える世界や見えない世界を出現させているだけです。
どんなに「ある」ように見えるものも、凝集させるエネルギーが去ったり拡散すれば、「なくなった」ように見えます。
でも、もともと「ある」「ない」ではなく、全体なんですね。
怒っても本当の私(本質)は怒っていない。心配しても本当の私は心配していない。
身体が痛い私は私そのものじゃない・・はその通りと実感しています。
「怒った」「心配している」「痛い」というストーリーはあるけど、そういう私はいません。
・・
以上は私の理解を言葉にしてみたことなので、正確ではありません。
大いなるものの一部であり「分離」の状態で生きるというストーリーを作っている状態では、これが今言える精一杯かなと思います。
「これ」だけなんですね。。
それでは皆さん、ごきげんよう!!
追記
『大和田菜穂のリトリート』 | End of Seeking 《探求の終わり》 では、「大和田菜穂さんと高僧たちの対話」(上巻下巻)で臨済宗の高僧といわれる人の話しの軸がズレズレになり、シッチャカメッチャカになる様子が面白かったです。
その高僧はストーリーでしかない事を、まことしやかに話し、自分を誇示するのに必死なのが見え見えでした。本人は分かってないんだろうなあ・・
「偉い」っていったいなんだろうね?
笑っちゃいます!!