NAOMI〜エメラルドグリーンのクレフ2

半農半Xを目指して。過去ログ2006~2013:http://blog.goo.ne.jp/n_aomi1214

私はない( 22:45追記あり)

川越〜小江戸の町並み

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時の鐘  ・・耐震化工事中・・

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こんにちは!

本日の座間地方・・朝のうちは陽が差していましたが、午後になって雲が多くなってきました。☁☁☁ ときおり強風が吹いています。

 

昨日マルセル君の両親のお墓参りで大宮に行った帰りに、川越まで足を伸ばし小江戸の町並みを散策してきました。

20年ほど前に訪れて以来ですが、ここも所々に空き家が目立ち、町をあげての景観保全に陰りを感じました。空き家は移りゆく世の現れなんですね。

 

話しは変わりますが、皆さん「ノン・デュアリティ」って聞いたことありますか?

説明できることではないので、ご参考までにページを貼っておきます。

『大和田菜穂のリトリート』 | End of Seeking 《探求の終わり》

 

「私はない」・・「○○はない」・・「何もない」

「すべてあること」

「全てあることの表現」

「ただ起きている」

「起きていることに意味はない」

「怒りはストーリー」

「悲しみはストーリー」

「喜びはストーリー」・・「○○はストーリー」

「何もない」

「教えに近づこうとするは分離」

「探求は分離」

「すべてはエネルギーの表現・・」

 

言葉にしてしまえばこんな感じです。

が、何かを言葉に置き換えるということが「分離」ですので、「ノン・デュアリティ」ではなくなるということなんですね。

「ノン・デュアリティ」は練習や修行で到達するのではなく、今そのままですでにそうだということです。

そうなろうとすることは分離で、「理解する」「理解しようとする」ことも分離です。

 

確かに・・

「私はない」・・「山はない」「町はない」・・と言ってみると・・全てがエネルギーの粒に観えます。

エネルギーはもともとあり(宇宙はエネルギーそのもの)、凝集したり拡散したりすることで、見える世界や見えない世界を出現させているだけです。

どんなに「ある」ように見えるものも、凝集させるエネルギーが去ったり拡散すれば、「なくなった」ように見えます。

でも、もともと「ある」「ない」ではなく、全体なんですね。

 

怒っても本当の私(本質)は怒っていない。心配しても本当の私は心配していない。

身体が痛い私は私そのものじゃない・・はその通りと実感しています。

「怒った」「心配している」「痛い」というストーリーはあるけど、そういう私はいません。

・・

以上は私の理解を言葉にしてみたことなので、正確ではありません。

大いなるものの一部であり「分離」の状態で生きるというストーリーを作っている状態では、これが今言える精一杯かなと思います。

「これ」だけなんですね。。

 

それでは皆さん、ごきげんよう!!

 

追記

『大和田菜穂のリトリート』 | End of Seeking 《探求の終わり》 では、「大和田菜穂さんと高僧たちの対話」(上巻下巻)で臨済宗の高僧といわれる人の話しの軸がズレズレになり、シッチャカメッチャカになる様子が面白かったです。

その高僧はストーリーでしかない事を、まことしやかに話し、自分を誇示するのに必死なのが見え見えでした。本人は分かってないんだろうなあ・・

「偉い」っていったいなんだろうね?

笑っちゃいます!!